昭和40年01月29日 夜の御理解
食物は我が心で毒にも薬にも成るものぞと。自分の頂き方では、毒にも薬にも成るものだと。食物は人の命の為に作って下さったという、その命の為の食物がです、頂き方では命を侵したり、命を縮めるだけにもなるぞと。毒にも成るぞと。どんなに例えば、貧しい物であってもです、こちらの頂き方では、それが血にも肉にも成るだけではない、薬にも成るぞとこうおっしゃっておるということ。
これは私は、食物ということだけでは無いと思うですね。一切万事の上にこの事が頂けれる。食物はではなくって、どのような例えば難儀な問題もです、その頂き方では毒にも薬にも成るものぞという事。いわゆる和賀心でそれを毒にも薬にもする事が出来るものだということにも、成るとこう思うんです。不浄、汚れ。忌み汚れは我が心で、払う事もあり侵す事もありと教えられております。
こんな不浄なことがと、例えば、いうようなことでもです、自分の心の開き具合というか、自分の心の受け方一つでは、それは、その不浄ということでもです、それを払う事もあれば侵す事もあるとこうおっしゃる。結局、その問題は和賀心に焦点が置かれなければならんということが分かりますですね。どのみ教えから頂きましても、信心とはもう和賀心で、その事、おんなじ事であっても、その心一つで薬にも毒にも成ったり、不浄になったり、不浄にもならなかったり。
払う事にもなったり、それを侵す事にもなったりするのですから。いかにその和賀心が大事かと言う事が解る。この辺にですね、私は一つの哲学がいると思うのですね。いわゆる深めなければいけないと言う事ですね。本当にお粗末ご無礼。お粗末。これは自分のおかげ受けられない、おかげ受けられないと思うて居る心が、おかげの受けられない元に成る。同じその事〔でも〕、はあ考えようで、こう考えさしてもろうたら、こりゃ反対にお礼申し上げることじゃった、ということに成って来るんですからね。
その心が、もう既に神様に映ずるのです、写るのですよ。おかげという心が、神様へ写るのです。今日の中村さんのお話の中に、何時もありますようにですね、とにかく私どもの幸不幸の鍵を握ってござるのは神様だと。まあそれを閻魔さんと言われるんですね。閻魔さんが、これは極楽て言わっしゃれば、極楽へ行くのである。これは地獄行きぞと言われりゃその場で地獄行きをしなければならない。
閻魔さんが鍵を握ってござると言うわけなんです。もう此の世で、あらゆる非道なことをしたと。ねえ。まあ罪を侵したその人が、いよいよ閻 魔さんの前に引き出される事になったわけなんです。ところがです、もうこりゃ自分は必ず地獄行きと思うとるものですから、なかなか閻魔さんの前に行くのが足が重い訳です。ね。閻魔さんの前へ出りゃ間違いなし、お前は地獄行きと言われる事は間違いないのですから。なかなかその閻魔さんの前に出るのが怖いのです。ね。
そこでその閻魔さん、向こうから来よったどこの何々じゃが、ぐずぐずして来よるから、はよう来るごと言うてくれ。だいたいそのことずけさっしゃった。それでそのぐずぐずして来んから、そのちゃんとして、極楽行きの座を用意して待っとる。はあ、急いで来んかち、ことずけさっしゃた、他の亡者に。それで、そのことずけを受けた亡者が、その人にですね、はあ、急いでいかにゃああた。
もうちゃんと閻魔さんが、あんたを極楽にやろうと思うて、極楽の座を作って待っておられるそうですよと、言うてそのことずけを言うた。ね。そこで、その地獄行きとばっかり思うて居ったその人がです、びっくり仰天したわけですねえ。何というお慈悲の深い閻魔様であろうかと。自分の様な極悪非道な人間をです、どうしてならば極楽にやって頂ける。何とまあ勿体ないことであろうかというて、そのありがた涙にかきくれて、閻魔様の前に出たて。勿体ない勿体ないで出た。
そしたら閻魔さんが「お前極楽いきじゃ。」どこに間違うてそのようになったか、皆さん分かりますか。閻魔さんの後ろに、ちゃっと、その何とかの鏡とかいうのがあってから、その人の心がぱっと写る様に成っておる。それが、その何と勿体ない有り難いというものが写ったわけ。この位の心が開いとるなら、こりゃ極楽行きと、まあ閻魔様はおっしゃったのでしょうねえ。
まあそれはほんとに笑い話ですけれどもです。そこに一つの哲学があると思うのですね。ですから一つの事が和賀心なのです。和賀心で、例えば、その罪を払いもすりゃ、侵すことにもなって来るのであり、食べ物でもです、頂き方一つでは、それは毒にもなれば薬にも成るのです。信心とはねえ、その和賀心を追求する事なんです。今日は敬親会でございましたが、もうとにかく敬親会の方達は、いつも感心するですけれども。皆さん時間励行で、きちっと集まられます。
そして夕方まで一生懸命信心の共励なさいます。私はいつもその皆さんのお話の中に、初めから入ると堅苦しいと思いますから、まあ最後の一時間位を、ちょっとかてて頂くのですけれども。もう皆さんの信心が進んで行かれるのに驚きます。その中にです、こういうようなお話をして居られる方があります。久留米から、もう八十になられますでしょうね、山口さん。
お婆さんがもうその今日を楽しみに通うてみえよるのですね。その方がこの正月にお夢の中に頂いておられるのがです、『信心がなかったら糞婆ち。信心がなかっら糞婆ち。信心のおかげで味噌婆になった』というお知らせを頂かれた。味噌糞のごとあるて言うでしょう。あんまり変わらんごと在るけれども、片一方はもうこれは汚い物であり、片一方はなしにはならない物でしょうが。
このおばあさんはですね、早くおじいさんと別れられてから、娘さんも、義理の娘さんであり、ですから孫なんかは、みんな義理の孫なんです。いうなら血を引いてはいないわけなんです。ところがこのお婆さんが、もうみんなから大事にされるわけです。なぜって、信心があるもんですからね。お導きさしてもろうた人も助かる。自分かたの、こりゃもうほんとに、先生方も皆ご承知の様にですね。
もう孫さん達からでも大変大事にされる。もうばあちゃんの信心のおかげで、僕たちもおかげ頂いておると、大事にされる。また大事にされて居らなければ、ああ言う状況の家庭の中から、ああいうふうなおかげを頂かされまい。また信心でもあんなには出来なさるまいと私は思うです。参ろうと思うても参られなさるまいと思うんです。山口イセさんて、皆さんもご承知でしょう。
はぁ素晴らしい御理解ですねと、私は聞かしてもらいました。ほんとに例えば血のけのないそのお婆さん、だんだんもう八十、それから歳を拾うてからです、ねえ、根性の悪い事でも言うておったり、意地の悪い事でも言いよったらです、「この糞ばばあ、はよう死にゃよかが」と言って、まあ陰口を言われる様なお年寄りがです、皆から「ばあちゃん、ばあちゃん」ちゅてから大事にされておられるということ。
『信心がなかなら、糞ばばあだけれども、信心のあったおかげで、味噌ばばあになった』と神様がお知らせ〔下さった〕。味噌が家の中に無しにはでけんでしょうが。そういう尊いことになっていかにゃいけんのですよ。ね。これだけは隠居田地であると。隠居の財産として持って居らなければ、若い者が大事にせんから、これは死ぬまで放されん、といったような事もなーんもいらんて。ねえ。それがあるとがいけないというのではないですけれども。ね。例えば、あなた、どういうものにあっとってもです、ね。
まだ若い者に身をすっとってから、その嫌われんように嫌われん様にということで、あげん努めとってもです、少しお手伝いが出来ておったり、口止めをいうて居る間は大事にしてくれるかも知れませんけれども。さあ、口がきかんごとなったり、手がかなわんようになったらどうしますか。糞ばばあになってしまうでしょう。はようもうくたばればよかが、ということにまで成っていくとですよ。
ところがですたい、ね、内容がです、有り難い、信心を頂いて有り難い勿体ないと。そういう心の状態になってくるときです、うちのばあちゃんにおってもらわにゃ家の中が暗い。ばあちゃんに居ってもらわにゃ、いよいよの時、神様にお願いして下さる人がない。難儀な時でも、ばあちゃんに持ってくると、ばあちゃんが、それは右ばい、左ばいと言うて、御神意を頂いてもろうて来て、言うてもろう。
その通りにさえしておりゃおかげを頂く。ね。もうどんな問題でも、孫がおばあちゃんに相談するんです。給料を持ってくるんでも、お母さんでなくおばあちゃんです。なるほど味噌ばばあに成って居られると言うことが分かるでしょう。和賀心なんですよ。権力で若い者を。権力が、その力がなくなったら途端にお粗末にされにゃならないですよ。金持ってござる間はと。物を持ってござる間は、というようなことで、大事にされるような年寄りになっちゃ駄目です。ね。
自分の心の中にです、ほんとにいよいよ有り難しという一念がです、段々育って行く様な信心。うちのおばあちゃんばっかりゃ、ほんなこつ、こげんとを生き仏様と言うとじゃろうかと。それでいて、ちゃっとその難儀な問題の時は、驚きもさっしゃらん、あわてもさっしゃらん。神様にお願いしときゃ大丈夫。ちゃっとお取次頂いてから、先生が右とおっしゃったから、左とおっしゃったからそうしときゃ間違いなかばいと、こう孫たちでも言うてやれれるお婆さんにならなきゃ駄目だと。
もうそんな事で皆さんね、今日は大変おかげ受けられました。ほんにそれどころじゃなかですのうちゅうてから、ほかのお年寄りの方も言うて居られるんですよ。ね。もう憎もうと思うても、家のおばあちゃんばかりは憎まれんと言うような内容の、いわばこれは、おばあちゃんに限った事ではないですけれども、そういう事にならせて頂けれるためのです、信心にならせて頂かなければならないと言うこと。
これは老いも若きも同じこと。ね。それがどういうようなあり方にならせて頂いたらそういう有り難い私に成れるかと。そこを私は信心は教えるのだとこう思うのです。日々に嬉しゅう有り難う暮らさせてもらう。元日のような心で暮らさせて頂けれる私に成ることの稽古を、教えを頂いてなさらなければ駄目だということ。自分の心一つで毒でも薬に出来るだけの信心が必要だということ。人が不浄というておられる事を、ね、それを自分の心一つで払うて行けれるだけの力を受けなければならないということ。
先程、秋永先生が話しておられるんです。最近私はもういよいよこう言うようなことを考えるのですよと。「例えば昨日は、高芝さん所のお宅祭りで、秋永先生と、こう人から先生と言われるように、立てられるもんですから、ほんとう言うたら真正面にどもいって座る資格は無いのですけれども、やはりこの前の方に座をしめさせてもらうと。初めの間はそれにあんまり平気であった。当たり前の様に思うておった。
ところが最近はその前の方に座をしめるというそのことがです、とにかくひっかかると。自分がこういう所に座る資格があるじゃろうかと、こう思われる。それでもやはりなら私が後ろに座る分けにはいけんからです、前に座るだけの自分にならんにゃいけん。信心にならんにゃいけんということを最近は考えます」とこう言う。私はその座るとか座らんとそういう事だけじゃないと。ね。
私は食べる資格があるじゃろうかと。私は着る資格があるじゃろうかと。私ども信心はそれでしたもの。私の修行の始まりはです、私のような者がです、例えば、その風呂に一つへ入ろうと思うても、風呂桶一つ買いきらん私なんだもん。隣近所に貰い風呂をしなければならない様な事で、私が風呂にども入るような資格があろうかと言うのが、私が風呂を断ちましたのがそれからでした。
年寄り子供ですら十分の物を与えきらんのにです、自分が腹一杯食べるような資格があろうかと言うところから、私は一食修行を始めました。ね。子供たちに、いわば新しい服の一枚でも作ってやる資格のない親がです、私がこういう物を着れる資格があろうかと言うところに、私は夏も冬もなしの夏服一つの修行に成りました。ね。こういうここに座れる資格があるだろうかと。こういうものを頂く資格があるたろうかと。
どうでしょうかねえ。例えば、勤めなら勤めに出ている人が給料を貰う。果してこれだけの給料貰う資格があるだろうか、と思う時に、勿体ないからその給料が、例えば、一万円貰っているならばです。それこそ一万円は一万五千円がたでも、二万円がたでも働かなければ居られないという実意な信心が出来てくると思うのです。もう時間さえ費やしゃ一万円な、貰えるのじゃけんちゅう。そういうことはできません。
秋永先生の言われる様にここに座れる資格があるだろうか。無いけれどもやはり座らせて頂いておると言うこと。そんならそこに座れるだけの資格の出来る様な、私にならんにゃならんと努めるということ。こういう着物を着せて頂いておるがこの着物でも着る資格が在るだろうか。そこに今日の私が申します、ねえ、やはり一つ宗教も哲学しなければいけないて。ほんとにやはり極めて行かなければいけません。
自分がそういう資格があるじゃろうかと。腹一杯食べよるが、当たり前のごと思いよるが、ね、腹一杯頂く資格があるじゃろうかと。とても甘いの辛いのというて、口上でも言われる資格は無いという様な頂き方の中にです、私はその食物が必ず薬になると私は思うのですよ。そういう頂き方が必ずおかげの素になると思うんですよ。そういう頂き方の稽古をさして頂いてです、始めて私どもはです、ねえ。
糞じいがとか、糞ばばがとか言われんで(笑)済む様な、いわゆる味噌爺さんに、味噌婆さんに成れるようなおかげ。家のおばあちゃんには居ってもらわにゃできん。うちのおじいちゃんには、一日でも長生きしてもらはにゃ居られん、と言うようなものがです、私は生まれて来、大事にされる様に成って来るのではないかとこう思うのですね。どうでもですね、そうゆうところを目指しての信心。そう在りたいということを目指しての信心にならなければいけない。
食物は自分の心で毒にも薬にもなるものぞとおっしゃる。これは食物だけのことでは無いということ。一切がです、ね、私共のいわば周囲にはです、もうほんとに薬にも成ったり、毒に成ったりするようなものが一杯なのですけれども、信心さして頂きますと、それは和賀心、自分の和らぎよろこぶ心で、それを不浄ではなくて、いわば忌み穢れの無い有り難いものとして頂いて行けれる。ね。
その有り難いなあ、勿体ない。自分の様なものにこのようなものを頂かしてもろうて、自分の様なものにこういう座を与えて頂いて、有り難い勿体ないという心が、神様の鏡に写らん筈はなし。「よし、よし、極楽行き」と言ったようなことに、神様が日々をです、その極楽行きを神様が許される様なおかげを頂かにゃいかん。今日はもう腹の立ってならん一日であった。
今日は、もうはがゆうして、はがゆうしてたまらん一日であった。そういう時には、自分の心をようと検討してみなさい。その問題を必ずです、自分の心で毒にして居る一日であったと、悟らせてもろうて、はあ、これを薬として頂くためには、どういう頂き方が必要かというところに焦点を置き、修行さして頂かなければならんと思うのですね。おかげ頂かねばなりません。